誉田屋 誉勘商店のものがたり

ものがたりの序章は、はるか昔

金襴とは、それはそれは美しい織物でございました。金糸で模様を織り出すその技法が日本に伝わりましたのは、400年以上もはるか昔にさかのぼります。明(現在の中国)から堺の地に伝わりましたのち、京都の西陣の地で盛んに織られるようになりました。経糸と横糸が紡ぎあげてゆくのは、創り手の魂、商いへの愛情、未来への希望、麗しいものを創り出す夢――。
 

享保5年(1720年)、京都・室町冷泉町。

「誉田屋」本家・初代誉田屋庄兵衛は呉服問屋を創業いたしました。室町には西陣織を扱う商家、著名な商家が居並ぶ界隈で、日本の近世を代表する三井家・三井越後屋(現在の三井グループ)もございました。金襴を商う誉田屋もまた、由緒ある商家のひとつだったのです。

 誉勘商店の初代当主、誉田屋勘兵衛は、そんな誉田屋本家に奉公するひとりでした。いつか自分の店を持つという商売人の野心を抱きながら、勘兵衛は日々商いに精を出しておりました。
 

始まりは「のれん」が与えるこころざし。

古くから、日本は店頭に家紋や屋号の描かれた布(のれん)を吊り下げるという慣習がございました。

そこで働く者に同じ屋号の店を出して商いをすることを認める際に、のれん―― つまり屋号を分け与えることから、「のれん分け」という言葉が生まれたのです。

 勘兵衛が本家よりのれん分けを許されたのは、宝暦元年(1751年)のこと。

 誉田屋庄兵衛からその努力を認められ、勘兵衛は「誉田屋」の屋号で自分の店を持つこととなりました。独立する嬉しさの反面、本家の名に恥じぬようにと、勘兵衛の手にそののれんはさぞ重みが感じられたことでしょう。
 

十一代当主 松井 太三郎

初代の信念は、世代を超えて。

念願の自分の店を持った勘兵衛は、同じ布地でも本家とは違う品を揃えました。法衣や装束、舞台衣装、人形の衣装に用いる金襴など、本家にはないものばかり。それは「本家の商売敵にならぬように」と勘兵衛が気づかってのことでした。

こうして勘兵衛は、正絹の西陣織で作られる金襴の商いを長い歳月のあいだ続けてきました。お客様が求めるものに応え、常に新しく、個性を持った独特の金襴を商うことを心がけてまいりました。

十一代 松井 太三郎 (中央右) 十二代 松井 隆治 (右)

勘兵衛は自分に誓ったのです。「わずかな布を買うお客様も、たくさんの布を買うお客様も、どちらも心から大切にしよう」と。その信念は1761年に勘兵衛その人が没するまで貫かれ、「布(きれ)一寸とも我が旦那なり」という家訓として、今もなお代々受け継がれております。
 

令和の時代を迎えてなお続く、伝統とのれんの街

京都は波乱の時代を幾度も超えてきたにもかかわらず、歴史的遺産、文化的遺産、京町家、伝統工芸品、老舗・のれんが数多く残る、世界でもまれな場所です。

当時の室町の旦那衆のたしなみであった謡の様子
前列左 十一代 松井太三郎

 誉勘商店は現在の当主・松井幸生で十三代を数えます。初代から変わらず京都室町冷泉町で今もなお、正絹にこだわり抜く京の老舗として商いを続けてまいりました。
 

装束、袈裟、人形の衣装、寺社で用いる宗教金襴など、金襴絹織物の製造と販売を手がけております。金欄の図案製作、配色、織物の風合いの選定、織物を織る機械の選定、糸の選定、糸染め、織物製作、誉勘商店はそれら全てを総合的に演出し続けること。これからも変わらない誉勘商店の商いです。

先代までの伝統と技術を守ること、これからも他にはない独自の商いを続けていくということ。そのための努力を惜しまない、怠らないこと。それが使命であると、現当主は語ります。

誉勘商店のものがたりはこの先も、終わることなく続いていくことでしょう。
 

株式会社 誉勘商店

株式会社 誉勘商店
〒604-0011
京都市中京区室町通二条上ル冷泉町53
電話番号:075-241-0168
FAX 番号:075-252-3595
営業時間: 午前9時~午後5時
定休日: 土・日曜日・祝祭日

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